アドバンスギターズ星野のフォーク紀行

〜フォークソングとアコースティックギターたち〜

第3回 岡林信康

こんにちは。
東京・新宿区(新大久保)にあるAdvance Guitarsの星野と申します。

本連載は、1960年代後半から70年代にかけて日本中を熱狂させた「フォークソング」、そして80年代のニューミュージックへと至るまでの軌跡の中で、あの名曲たちが「果たして誰の?、どんなアコースティックギターで奏でられていたのか?」という純粋な疑問から『アドバンスギターズ星野のフォーク紀行 〜フォークソングとアコースティックギターたち〜』にてフォークソングのアーティストや使用ギターにフォーカスを当てて紹介します。

名曲の裏側で、どんなギターが、どんな意図で選ばれ、どんな音色で鳴っていたのか。
私は、プロの楽器店員としてのマニアックな視点と、純粋な音楽ファンとしての探求心を執筆する中で知識を深めていきます。

 

第3回:「孤高の天才」岡林信康と名工テリー中本

第3回のテーマは、日本のフォークロック史を語る上で欠かせない孤高の存在・岡林信康。
時代の代弁者として駆け抜けた彼の精神性と、今や日本の最高峰ギターとして君臨する「Terry's Terry」の深い関係性に迫ります。神様と呼ばれた男が辿り着いた、究極の音の正体を紐解いていきます。

岡林信康氏が「フォークの神様」と呼ばれるまでの背景とは?

「キリスト教会の牧師の父を持ち、幼少時よりクラシック音楽や讃美歌を中心とした音楽を聴いて育つ岡林信康氏。
当時「クラシックや讃美歌以外は悪魔の音楽」と思っていたそうです。
それほど熱心にキリスト教を信仰していた岡林信康氏は牧師を目指し、1966年には同志社大学神学部に入学するも実家の教会での不良少女に対する扱いなどの内部事情から次第に信仰に対する不信感を抱くようになります。

1967年、岡林信康氏が苦悩の果てに向かった先は東京のドヤ街と呼ばれる山谷(さんや)でした。高度経済成長の陰で過酷な肉体労働と貧困に喘ぐ日雇い労働者たちがひしめく街がドヤ街です。そこで労働者支援を行っていた金井牧師を訪ねたことが、彼の人生を、そして日本の音楽史を変えることになります。

当時20歳の岡林信康氏は苦悩を抱えながらも神学生としての正義感から「労働者の力になりたい!」と胸にして山谷にやってきた岡林信康氏に対し、金井牧師は「お前、何をしに来た。労働者を救いにでも来たつもりか。おこがましいことを考えるな」と容赦ない言葉を放ちます。「本当に知りたいなら救う側ではなく、お前自身が日雇い労働者になって、同じ泥水をすすって生きてみろ」

この言葉こそ岡林信康氏が神学生を捨て、一人の日雇い労働者としてドヤ街に身を置くことになります。

そこでの生活は建設現場で汗を流し、夜は安焼酎で一日の労働を癒す日々。そこには、上からの同情や憐れみなど一切通用しない「生身の人間」のリアルな生と死があったのではないかと想像します。

岡林信康氏の代表曲として挙げられる「山谷ブルース(1968年)」は山谷で感じた孤独や労働者の叫びがレコードノイズとギターのアルペジオに乗せて歌われています。

コラムを書くにあたりこの曲を初めて聴いた時は「なんて暗い曲なんだろう」と思っていましたが、岡林信康氏のストーリーを知ってから聴くと「こんな思いで山谷を過ごしていたんだな」と染み入る感じに聴くようになりました。

「山谷ブルース」がリリースされた時代はまさに「関西フォーク」「アングラフォーク」ブーム。岡林信康の「友よ(1968年)」「くそくらえ節(1969年)」といった反骨精神を歌った曲は瞬く間に若者の心に刺さりいつしかフォークの神様と称されるようになります。

岡林信康のデビュー曲は「山谷ブルース」ですが、実はデビュー曲として用意されてたのは「くそくらえ節」を改題した「ほんじゃま、おじゃまします(A面)」/「山谷ブルース(B面)」だったそうです。しかし、過激な歌詞の内容からB面だった「山谷ブルース」をデビュー曲として発売したという逸話があります。

「フォークの神様」の失踪と「歌謡界の女王」との物語

多くの若者や民衆から「フォークの神様」と称えられ岡林信康氏の熱狂的ブームは順調にいっているかのように思われた矢先に事件が訪れます。

「神様」という称号は少しずつ岡林信康氏を苦しめはじめます・・・

世間が次第に「若者の教祖」と祭り上げるがあまり、政治的メッセージを歌にする期待や声が増えていくことになります。「山谷ブルース」のように自身の体験を歌にする曲を歌いたいという気持ちと、世間の政治的メッセージを歌うことを求めるギャップが再び岡林信康氏に苦悩を与えました。デビューからわずか3年の1971年に岐阜県の恵那郡坂下町で開催された第3回全日本フォークジャンボリーのステージを最後に音楽シーンから突如と姿を消します。

岡林信康氏は京都府の農村へと姿を隠し約4年間、音楽を完全に排除し泥にまみれた農村生活を送りながら自身を見つめなおしていたのかもしれません。周囲にも自身が「岡林信康」だということすら隠していたほどと言われています。

そんな農村生活を送る岡林信康氏が再び音楽の世界に舞い戻る出来事が起きます。農村生活も4年目に差し掛かった時に何気なく見ていたテレビから流れる美空ひばり氏や三橋美智也氏の歌声に衝撃が走ります。それまでアメリカのフォークやロックに傾倒し歌謡曲や演歌は商業主義の象徴であり古臭いと思っていた岡林信康氏が感じたものとは、それまで英詞を日本語に変えて2拍4拍のリズムで歌う音楽ではなく、日本人ならではの1拍3拍のリズムかつ美しく歌い上げるメロディでした。

後の名曲となる「月の夜汽車」は岡林信康氏が美空ひばり氏を想い農村で書いた曲であり、のちにその曲をカセットテープに吹き込んだのちに、知り合いのイラストレーター黒田征太郎氏に送ったところ、作詞家の吉岡治氏へ渡り、最終的に美空ひばり氏本人に届くというストリーがあります。その曲を美空ひばり氏本人が「歌いたい」と懇願し、美空ひばり氏と岡林信康氏がレコーディングの場で奇跡の出会いを果たし1975年に美空ひばり氏のA面「月の夜汽車」B面「風の流れに」はリリースされます。美空ひばり氏が岡林信康氏の「月の夜汽車」だけでなく「風の流れに」を気に入ったことから実現したようです。それから岡林信康氏と美空ひばり氏は互いに呑み合う仲となり親交を深めていきます。

1970年代に美空ひばり氏から岡林信康氏に宛てた手紙を贈ったという逸話があります。贈られた手紙の中には詩が書かれており、当時はその世界観を理解できずに作品にはできなかったが、2009年に自宅を整理していた際に引き出しから手紙を見つけ、約35年の時を得て「レクイエム〜麦畑のひばり〜(2010年)」を発表したという逸話があります。

岡林信康が「エンヤトット」で果たした、魂の完全復活

1975年、4年間の農村生活を経て、岡林信康氏は再び音楽の世界に舞い戻ります。かつて所属していたCBS・ソニーから日本コロムビアに移籍、それまでの自身の体験談などを熱く歌った労働曲などと異なり演歌、歌謡曲調の曲を収録した「うつし絵(1975年)」をリリースします。岡林信康氏が辿り着いたのは洋楽の8ビートロックやフォークではなく、日本人が持っている民謡や盆踊りなどのリズムこそ「エンヤトット」だったのです。

同年12月には中野サンプラザで行われた「岡林信康リサイタル・中野サンプラザ」では約4年ぶりの単独コンサートを行った際に美空ひばり氏本人が客席からステージに上がり「風の流れに」を歌いあげたという伝説もあります。

岡林信康氏の音楽スタイルに隠されていたのは、「フォークの神様」と称えられた苦悩からの脱脚、山谷での過酷な肉体労働、農村生活で出会った演歌・歌謡曲のリズム。これこそが自身の新たな音楽スタイルを築き上げた答えなのかもしれません。

岡林信康氏の「エンヤトット・ミュージック」を支える国産ギターたち

岡林が追求する日本の伝統的なリズムを乗せた「エンヤトット・ミュージック」において、過酷な演奏条件でも耐えながらも鳴りの良さを重視するこだわりが隠されています。特に「良く鳴って、頑丈で、キレイな音」こそ岡林信康氏が求めるこだわりなのです。

YAMAHA 1977年製 L-54 Custom

「既存のモデルではなく、アーティストが求める音作りをする」というコンセプトではじまったオーダーシステム。監修する中本輝美ことテリー中本氏は「彼らに見てもらうにはインパクトが足りない」と後のL四天王と称される4本のギターをベースに製作します。そのモデルこそL-51、L-52、L-53、L-54です。

本機はL-54のウェスタンボディをベースに岡林信康氏がオーダーした1本。オーダーするにあたりテリー中本氏に「良く鳴って、頑丈で、下品な音」とオーダー。

上記のオーダーから製作された本機は全体的に板厚を厚くし、ポジションマークを廃したシンプルなルックスに仕上げたと記録が残されています。ルックスはL-51に似てながらもボディサイズが異なる特別な1本です。岡林信康氏は「1977年に中本氏と知り合い、現在のヤツ(L-54 Custom)を作ってもらってからはYAMAHAだけ。テリー中本の人柄に惚れた」と語っています。

※画像はイメージです。(1975年製 L-54 Custom)

Terry's Terry TJ-100 Custom

※写真はイメージです。(TJ-100)

テリー中本氏が主幹するブランド「Terry's Terry」
中本氏が1本1本製作し、内部のレザーラベルにはテリー中本氏の直筆サインが加えられオーナーの元に届きます。

岡林信康氏が使用する個体はロゼッタにアバロン・シェルの装飾を施し、スノーフレーク・インレイを施したモデルです。写真のモデルはパーフリングにもアバロン・シェルが施されていますが、岡林信康氏が使用する個体には確認できませんでした。このことからできる限りシンプルなデザインを好んでいることが想像できます。

Terry's Terry TMJ-051 Custom

左右非対称のボディが特徴のYAMAHA L-51がベースに製作された1本。

本機の特徴はボディシェイプやピックガード、ブリッジの形はそのままに、ヘッドストックはTerry's Terryシェイプ、指板とブリッジがエボニーではなく、ローズウッドが採用されていることが伺えます。また、こちらもアバロン・シェルの装飾はされておらずシンプルに仕上げられていることが拝見できます。

※画像はイメージです。(1955年製 D-28)

Terry's Terry TS-100 Custom

こちらは3トーン・サンバーストカラーが目を惹くTS-100 Custom。これまでに紹介したTerry's Terryの2本と異なり、ボディの縁を飾るアバロン・シェルの装飾が施されていることが伺えます。

ボディ、指板サイド、ヘッドストックにはメイプルのバインディングが施されています。ナチュラルカラーとはまた違った渋さと美しさを感じられる1本です。

岡林信康氏を知って...

「アングラフォーク」が流行していた1960年代後半〜70年代に活躍していたシンガーは若者や民衆から商業主義による批判を受け、苦しみながら自信を見つめ直す時期があったんだなと改めて感じました。

第二回で紹介した高石ともや氏も名田庄村へ移り音楽と距離を置いたのと同時に、岡林信康氏も農村での暮らしで音楽と距離を置いていたのは驚きでした。1969年にも過密なスケジュールやリスナーの期待による精神的な疲労により、大阪公演をドタキャンして「下痢を治しててきます」と手紙を残して失踪していたのはびっくりしました。

また、はっぴいえんど、美空ひばり、きたやまおさむと並び立ち、時代を揺るがした岡林信康氏。波瀾万丈な人生の中で彼が引き寄せた出会いは、日本の音楽史に刻まれた最高の奇跡だったのではないでしょうか。改めて「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」はもちろん「君に捧げるラブ・ソング」「友よ」といった名曲を改めて聴きながら、より深く岡林信康氏を知りたいと感じました。

ぜひ、「岡林信康といったらこんなエピソードがあるよ!」「この曲は押さえておいた方がいい」「リアルタイムで失踪事件を目の当たりにしたよ」といったお話がありましたらぜひ聞かせてください!

今後も取り扱って欲しいミュージシャンやフォークソングにまつわるお話など、皆様からのリクエストをお待ちしております。 私にとっては「当時実際に目にした」「あのコンサートでこのギターの音を聴いた」というような生のお話はとても貴重で、何よりの教科書です。 もしよろしければ、ぜひアドバンスギターズ 星野までご連絡ください。

✉️ aco@tcgakki.com

それでは、次回の『星野のフォーク紀行』でまたお会いしましょう!

この記事を書いた人:星野(アドバンスギターズ)

2025年1月TC楽器入社。主にエレキギターでインストゥルメンタルを中心に演奏しながら、ギターのニュアンスや表現力を追求しています。
好きなアーティストはB'z、Gary Moore、Allen Hindsなど。
趣味はコピックを使用してイラストを描くことです。

保有資格・実績: 楽器販売員歴10年、楽器鑑定士歴2年

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