History of Gibson J-50
"良き相棒"J-50の歴史

〜いつの時代もミュージシャンの側にいるJ-50〜

Gibson J-50は、J-45のナチュラル・フィニッシュとして1942年に登場しました。J-45ほど派手な存在感はないものの、ミュージシャンとの結びつきはむしろ強い印象があります。たとえば「J-45の代表的なプレイヤーは?」という問いに対し、J-45のナチュラルという文脈でボブ・ディランやジェイムス・テイラーが挙げられることがあります。
これはJ-50のイメージがそれだけ強固であることを示しているのではないでしょうか。このほかにも、デイヴィ・グレアム、ジョン・レンボーン、小坂 忠、細野晴臣、星野源、カネコアヤノなど、J-50を使用してきたアーティストは数多く存在します。今回は、彼らの話にもふ触れつつ、J-50の魅力を歴史面からも掘り下げていきます。

〜Gibson J-50 Players〜

ボブ・ディラン

Gibson J-50を語るなら、ボブ・ディランは避けて通れない存在です。デビュー作「Bob Dylan」のジャケットに写っているのもJ-50。録音は1961年11月20日と22日、発売は1962年3月19日です。次作「The Freewheelin’ Bob Dylan」でも使用されたとも言われており、あたたかな響きは今も音源で確かめられます。そのJ-50について写真資料から読み取れる特徴は次のとおりです。
・スクリプト・ロゴ
・戦後期のKluson製 八角形 チューナー オープンバック仕様(推定)
・レクタンギュラー・ブリッジ
・ロングサドル
・3プライのボディ・セル・バインディング

スクリプト・ロゴかつレクタンギュラー・ブリッジという組み合わせから、製作年は1946〜1947年に絞られます。1947年はスクリプトとモダンロゴが混在する移行期ですが、ディランの影響か、もともとの生産数の少なさゆえか、見る機会はほとんどありません。とはいえ..

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とはいえ、1946年製を見る機会も特別多いわけではありません。ただ、もし二択で答えてと言われたら、移行期ではない1946年製の可能性が高いと言わざるを得ないでしょう。

彼のJ-50は「BOB DYLAN On A Couch & Fifty Cents A Day ※1」にて、1964年にボブ・ディランの元恋人であったスーズ・ロトロが所有していたこと、その後"ニューヨークのアパートで盗まれた"とスーズ・ロトロが言っていたことがピーター・マッケンジーによって記されています。

ボブ・ディランのJ-50は火事により焼失したと言われることもありますが、
これについてはスーズ・ロトロ自身の考えが彼女の自伝である「A Freewheelin' Time ※2」で確認できます。1965年の10月に彼女の自宅アパートで火事が起こるのですが、その時の様子については次のように記載されています。

"Bob’s old Gibson guitar was nowhere to be found. The green coat that I had bought in Italy and was wearing on the Freewheelin’ album cover was somewhere in the pile of black, stinking clothing in the bedroom."

Freewheelin’のジャケットで着ていたコートは黒焦げになっていた一方で、
ボブのギブソンギターは"どこにも見つからなかった"という表現をしています。この頃彼女が持っているボブのギブソンギターというのは、彼のギターの使用歴やピーター・マッケンジーの話から考えるにJ-50で間違いないと言っても差し支えないでしょう。

では、"なぜスーズ・ロトロは、ボブのJ-50が盗まれたと思っているか?"

その理由は、彼女の自伝を読むと見えてきます。彼女は同時期に知り合った俳優にアパートの鍵を渡しており、のちに起きた火事について「原因は老朽建物でよくある配線不良とされているが、もしかすると彼が関わっていたのではないか」という疑念を抱いていました。火災後、J-50は見つからなかったため、彼女はその俳優が持ち去ったのではないかと推測します。もっとも、これは本人の想像の域を出ず、ギターが焼失したのか、盗難に遭ったのか、あるいは別の事情でどこかに残っているのかを確かめる術はありません。

※1 ボブ・ディランが1961年ごろより、よく訪れていたというアパートのイヴとマック・マッケンジーの息子であるピーター・マッケンジーによる著書

※2 ボブ・ディランの恋人であったスーズ・ロトロによる自伝

ジェイムス・テイラー

J-50を愛用していたシンガー・ソング・ライターとしてジェイムス・テイラーもまた必ずと言っていいほど挙げられる人物の一人です。初期の3作「James Taylor(1968)」「Sweet Baby James(1970)」「Mud Slide Slim and the Blue Horizon(1971)」等でJ-50を使用していたと本人が答えています。中低音にほどよい量感と高音域には歯切れの良さがあり、どこか上質でぬくもりのある響きは、彼の歌声と絶妙に溶け合います。

印象的なのは、ピックガードが外されている点で、1960年代後半にはすでにこのようなスタイルになっていたことを確認できます。1960年代のギブソンは仕様変更も激しいので、製造年も気になるところ。写真を見ると、外した部分にも塗装が施されており、これは「ボディを塗装した後にピックガードを貼る」時期の個体であることを示します。ギブソンは1964年に薄手のラージピックガードから厚手のラージピックガードへ移行し、そのタイミングから後貼りが基本になります。本人もJ-50を1964年に購入したと語っており、仕様変遷を合わせて考えると、彼のJ-50は1964年製の可能性が高いでしょう(レギュラーネック、ヘッド角17度、厚手ピックガード)。

そんなJ-50の姿は彼のYouTubeチャンネルで確認することができるのでぜひご覧ください。
公開日:2021年01月22日
収録日:2011年

デイヴィ・グレアム

1960年代のブリティッシュ・フォーク復興を代表するギタリストの一人です。伝統的な英国フォークに、ブルースやジャズ、さらにモロッコやインドの音楽語法を取り入れて、アコースティック・ギターの表現を大きく広げました。象徴的なのがDADGADチューニングの普及で、開放弦のドローンを土台にモーダルに展開する奏法を一般化させています。代表曲「Anji(Angi)」は後続の標準曲となり、バート・ヤンシュやポール・サイモンにも受け継がれました。主要作には「The Guitar Player」(1963)、「Folk Roots, New Routes」(シャーリー・コリンズと共作、1964)、「Folk, Blues & Beyond」(1965)があり、いずれもフォーク、ブルース、ジャズ、そして非西欧的な響きを横断的に結びつけた内容です。その影響はバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ポール・サイモン、ジミー・ペイジへと広がり、英国発のアコースティック・サウンドの基礎作りに決定的な役割を果たしました。

そんな彼のJ-50はファースト・アルバムである「The Guitar Player」の表紙でも確認することができます。スモールピックガードにショートサドルがマウントされたアッパーベリーブリッジの仕様は、1953年〜1954年ごろに製造された個体であることが考えられます。

ジョン・レンボーン

デイヴィ・グレアム同様、1960年代からイギリスの音楽シーンを拡張させていったギタリストの一人です。また同時期である1966年にバート・ヤンシュとの連名作「Bert and John 」をリーリスし、翌年の1967年にはジャッキー・マクシー、ダニー・トンプソン、テリー・コックスとともにペンタングルを結成しました。1968年にリリースされたアルバム「Sir John A Lot (Of Merrie Englandes Musyk Thyng & Ye Grene Knyghte) 」(邦題:鎧面の騎士)では、ルネサンス時代の作曲家であるウィリアム・バードの「The Earle of Salisbury」をアコースティックギターで表現し、次作「The Lady and the Unicorn」ではギヨーム・ド・マショーのバラードを取り入れるなど中世の音楽にも挑戦しました。

ジョン・レンボーンは、アルバム「Another Monday」のジャケットでGibson J-50を手にしています。彼がJ-50を買う決め手になったのは、先に触れたデイヴィ・グレアム「The Guitar Player」のカバー写真でした。ところが後年、レンボーンがグレアム本人と知り合った際、グレアムは同作の録音では実際にはマーティンのギターを使用していたことを知ります。というのも、アルバム・カバーの写真撮影の前夜のパーティーに誤って別のギターケースを持ってきてしまい、そのため当日の撮影ではケースに入っていたJ-50を写真用に使わざるを得なかったそうです。この偶然の一枚がレンボーンの購入動機となり、のちのアルバムやツアーで彼の核となるサウンドを形づくりました。フィンガースタイル史に残る、実に興味深いエピソードです。

小坂 忠

日本で「Gibson J-50を手にした代表的シンガーソングライターは?」と問われれば、源流に最も近い存在として小坂 忠を挙げたいです。J-50入手の経緯や細野晴臣との関係はここでは割愛し、彼が使用したJ-50の製造年に絞って考察します。1960年代末に手に入れたというそのJ-50は、厚手ピックガードにアジャスタブル・サドル付きのアッパーベリー・ブリッジという仕様。
この仕様の年代幅は広くなってしまいますが、ここでヒントとなるのが使用されているパーツです。厚手ピックガードの導入が1964年。また、ペグとして搭載されているのが"KLUSON DELUXE"という刻印が1列のみ入った、クルーソンの「シングルライン」デラックスチューナーです。このペグの刻印は1965年に"KLUSON DELUXE"という文字が2列入った「ダブルライン」へと切り替わります。つまり、厚手ピックガード初年度かつクルーソンシングルライン最終年という一致で、1964年製の可能性が高いといえます。
細野晴臣は安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)との対談で、"忠もジェイムス・テイラーの影響でギブソンのJ-50を買ったのかもしれないね。"という話をしており、なんの因果か、まさに同じ年の1本を使っていた可能性があるという今回の発見には、不思議な縁と興奮を感じました。

星野源

ソロデビューをした2010年頃から、アコースティックギターはGibsonのスモールボディを使用していた印象があります。(LG-1もしくはB-25 ※ボディバインディングが1プライにも見えるのでLG-1??)そして2010年代中頃から使用しているのがGibson J-50。スモールピックガードにロングサドルがマウントされたアッパーベリーブリッジの仕様は、混在している期間が長く1948年〜1954年ごろに製造された個体であることが考えられます。
少し前ですと2024年12月31日に放送された紅白歌合戦でも使用を確認することができました。スモールボディを使用していたころの素朴な響きも素敵でしたが、ジャンボサイズらしいふくよかで厚みのある音色もまた深さがあって堪りません。

カネコアヤノ

ヴィンテージギターを使用した弾き語りで現代的に印象深い一人です。エレキギターを使用したバンド形態でも活躍されていますが、アコースティックギターによる演奏も圧巻です。弾き語りでは主にヴィンテージのCountry WesternとJ-50を使用。J-50はレギュラーネック&ヘッド角17度の1965年製です。音源で聴いてもわかる通り、歌声を支える安心感のある重厚な低音が魅力。また、サウンドだけでなく、サウンドホールやピックガード周りにできた弾き傷は彼女とJ-50の歩みそのものであり、ギブソンが好きで弾き語りをする人にとっては理想といえるような佇まいではないでしょうか。



Vintage Gibson J-50 Gallery

当店でこれまでに取り扱ってきたヴィンテージJ-50の一部を紹介します。
J-50を使用するミュージシャンとゆかりのある仕様を厳選しました。

Gibson 1947 J-50

量産体制が整い始めるころの1947年製 J-50です。ロゴマークはモダンタイプ。ちょうどこの年にスクリプトロゴからモダンロゴに変更したと考えられます。スモールピックガードに、ロングサドルが搭載されたレクタンギュラーブリッジを採用。ヘッドの厚みが先端と根元で違うテーパーヘッド仕様となっているのもマニア心をくすぐります。ボディトップのスプルースは黄金のような照りがあり、横杢もびっしりと入った非常に美しい材が使用されています。

ネックブロックには極初期とされるファクトリー・オーダー・ナンバー(FON)が付けられています。黒く太字でスタンプされた「605」という番号は、ギターのバッチに割り当てられた固有の番号で、右隣の「30」という数字は、個々のギターに割り当てられた番号とされています。

ボディ内部を観察すると、一般的にはメイプル材やプライウッドが使用されるギブソンのブリッジプレートですが、こちらの個体は明らかにスプルース様の素材が使用されていることがわかります。(写真は補修前)

またボディサイドの裏側には、スプルースのサイドリボン(割れ止め)が12本付けられていることがわかります。

トラスロッドカバーやチューナーに使用されるスクリューはプラスで、この時期はマイナスが主流であったと考えられますが、同じ1947年製でプラススクリューの個体がいくつか確認されています。

バナー期(1942年〜1945年)は板が厚く軽量であると言われたりしますが、こちらの個体も1.80kgとギブソンジャンボの中では軽量に値すると言って良い数字です。また、トップ板も2.4mmと薄く、1960年代の個体と写真で見比べても厚みの違いがわかるのではないでしょうか。

Gibson 1951 J-50

こちらの1951年製 J-50は、スモール・ピックガードにロングサドルのアッパーベリー・ブリッジ仕様。前述の1947年製と比べると、ブリッジ形状以外にもいくつかの変化が見られます。まずピックガードは赤みが増し、全体の印象がやや明るいこと。ヘッドのテーパーは解消され、厚みはほぼ均一になっています。内部構造ではブリッジプレートはソリッドメイプルが使用されており、サイドリボンが12本から10本へと減少(ボディくびれ部分から下4本が3本に減少)。
このように細部を追っていくと、同じJ-50でも漂う雰囲気の違いがいっそう鮮明に感じられます。

Gibson 1954 J-50

スモールピックガードにショートサドルが搭載されたアッパーベリーブリッジ仕様の1954年製。この他の特徴としては"KLUSON DELUXE"の刻印がないクルーソンデラックスチューナー(ノーライン)が採用されており、フレット数が19(1955年より20に移行)なのもこの時期ならではです。
スモールピックガード&ナチュラルカラー&白のボディバインディングの影響からか、ボディ形状が少し膨らんだようにも見えます。

Gibson 1963 J-50

薄手のラージピックガード、プラスチックブリッジ仕様の個体です。基本構造はJ-45の特集記事でも触れているので、今回1951年製と比較してわかったことを記しておきます。

1951年の個体と比べるとスケールに明らかな違いが見られました。ナットからサドル頂点まで、1951年製の方が7mm長いことになります。

細かく計測してみたところ、ナットから12フレットで約2mm(製作の段階で中央を長めに取っている)12フレットからジョイントで約1.5mm(1963年製の方がネックがよりボディ側にジョイントされている)ボディの大きさで2mm(ブリッジエンドからボディエンドまでの長さは同じだったためスケールに影響している)ブリッジ上部からサドル接点までで約1.5mmの差がありました。

1963年製はすでに20フレット仕様です。単純に考えれば、1951年製よりスケールが長くなっていても不思議ではありませんが、実測ではむしろ短くなっている。この点はきわめて興味深いところです。ハンドメイドである以上、製作における微細な誤差の積み重ねが、最終的な数値に現れると考えられます。

比較写真を見直すと、指板の色味やネックジョイント付近の厚みなど、まだまだ異なる部分があるようです。

Gibson 1964 J-50

薄手のラージピックガード、プラスチックブリッジ仕様の個体です。基本構造はJ-45の特集記事でも触れているので、今回1951年製と比較してわかったことを記しておきます。

1951年の個体と比べるとスケールに明らかな違いが見られました。ナットからサドル頂点まで、1951年製の方が7mm長いことになります。

細かく計測してみたところ、ナットから12フレットで約2mm(製作の段階で中央を長めに取っている)12フレットからジョイントで約1.5mm(1963年製の方がネックがよりボディ側にジョイントされている)ボディの大きさで2mm(ブリッジエンドからボディエンドまでの長さは同じだったためスケールに影響している)ブリッジ上部からサドル接点までで約1.5mmの差がありました。

1963年製はすでに20フレット仕様です。単純に考えれば、1951年製よりスケールが長くなっていても不思議ではありませんが、実測ではむしろ短くなっている。この点はきわめて興味深いところです。ハンドメイドである以上、製作における微細な誤差の積み重ねが、最終的な数値に現れると考えられます。

比較写真を見直すと、指板の色味やネックジョイント付近の厚みなど、まだまだ異なる部分があるようです。

Gibson 1965 J-50

レギュラーネック仕様の1965年製 J-50。GIBSON KING OF THE FLAT-TOPS ~幻のギターを解明する世界初のSJ資料集~でも採用したトランスペアレント・イメージ・システムで撮影された画像では、ブレーシングやセンターにある割れ止めの位置等も確認することができます。

年表

年表はJ-45の仕様変遷と並行していると考えられるため、
詳細はThe Workhorse 〜Gibson J-45の歴史〜をご参照ください。

〜バナーヘッド期(1942〜1945)のJ-50について〜
J-50の誕生年は1946〜1948年と書かれることもありますが、バナーヘッド・ロゴを備えたJ-50の実在が確認されています。
さらに、最初のJ-50は1942年6月1日にオハイオ州ミネルバ、イーストハイストリートのマイヤーズ・ミュージック・ストアへ出荷されたと伝わっています。
以上から、J-50の誕生年は1942年とみなすのが妥当でしょう。